8. いまだ見ぬ者達

「踏み込みが弱い! 力で押そうとするな!」

打ち込みにかかるアルビスの剣を捌きながらベルトラムが叱咤する。下士官とはいえ、長年にわたって兵士を鍛えてきた男の目は、アルビスの動きの弱いところを適確に見抜く。

「全身でかかれ! こうだ!」

一瞬身を引いたベルトラムの体が大きく前へ出る。すばやく間合いを詰めるその動きに、アルビスは対応しきれない。繰り出される剣の一撃を防ごうと身構えるが、文字通り全身で打ちかかるベルトラムの勢いを止めることはできない。バランスを崩したアルビスはかろうじて片手をつき、勢いを殺すのが精一杯だった。

一瞬の沈黙の後、地面に倒れ伏したアルビスが身を起こそうとすると、目の前にはベルトラムが手を差し伸べて立っていた。

「どうだ? 腕力だけではこうはいかん。体力で劣るエルズニルならなおさらだ」

無言のまま埃を叩き落とすアルビスに向かってベルトラムが言う。

「さて、まだ続けるか? それとも、しばらく休むか?」

十数回は続いたと思われる組み討ちの後に、その日の稽古は終わりを迎えた。

「今日はこれで終わりだ。そうそう、夜道では気をつけたほうがいいかもしれんぞ」

「気をつけろ、というのは?」

「賊だよ。このところ、新市街を中心に強盗がよく出る。特にお前みたいな外見の細い者は狙われやすいからな」

「ありがとうございます。心に留めておくことにします」

アルビスはベルトラムに礼を言うと、剣を手に軍学校の敷地を後にした。

大通りに出た頃には、太陽はもう城の向こうに姿を隠しつつあった。大通りから脇へ入る街路へと向かい、アルビスは家路を急ぐ。帰ってからのことをいろいろと考えつつ、道を歩いていくアルビスの視界の向こうに、誰かがいる。誰か−もしかしたら何かかもしれないが−は分からないが、少なくともこの辺りのものじゃない。

さきほどベルトラムから忠告を受けたのもあるが、気が付かないうちにアルビスの足取りは重くなっていた。向こうにいる誰かと、アルビスの距離が少しずつ縮まっていく。いくらか歩いたところで、アルビスは不意に左手のほうに気配を感じた。その方向に目を向けると、そこにはいまいる道と同じ石畳の路地が続いている。だが、夜の闇はさらに深く垂れこめ、数ラング先はすでに闇の中だ。

不意に感じた「それ」がアルビスに近づき始める。「それ」に合わせて闇はさらに濃さを増し、アルビスに向かって広がってくる。暗闇の広がりを感じ取り、アルビスは一歩退いた。それは、暗闇への怖れというよりは得体の知れない不安のせいかもしれない。暗闇はアルビスが足を退くよりも速く迫り、その距離がさらに縮まっていくのをアルビスは感じた。

とうとう、アルビスはもともと行くつもりだった道−寮へ続く道−のほうへ体を向け、駆け出していた。怖さや不安から逃れたい一心からだった。わずかながら好奇心もあったが、やはり怖かった。しかし、背後からはそれ以上の速さで何かが追ってくる。

そのうちに、アルビスの目の前は急に暗くなり、いつのまにか身体全体が暗闇の中に浮かんでいた。なおも走り続けるアルビスの背後から、何かが追ってきて手を伸ばし、アルビスの体を捕らえようとするのが感じられる。アルビスは走りながらその手を振り払おうと体を捻りさらに手を振るが、何の手ごたえもない。かえって逃れようとする体の動きは鈍っていき、やがて何も見えない暗闇の中でアルビスは立ち止まった。追ってきた何かはアルビスの体にのしかかるように覆いかぶさり、その体は暗闇の中に沈んでいった…。

*  *  *

アルビスは不意に目を覚ました。いつもより目覚めが悪い感じがする。身体を起こしてはみたが、妙に身体が重い。耳を澄ませても、胸が鼓動する音以外は何も聞こえない。

(それにしても悪い夢だ)

そして、目覚めた後の感覚もどこかが違っている。しかし、あたりを見回しても目に映るのはいつもの部屋の風景だ。

ゆっくりとベッドから立ち上がり、窓の側に立ってみる。窓の外に広がるのは、やはりバーンの町並みだ。遠くにはフィヨルの山が連なっているのがわかる。空は晴れ、日の光が家々の屋根に降り注いでいるが、風は凪いでいる。

(おかしい…空がこんなに明るいのに風が無いなんて)

空を見遣っていた顔を引っ込めて、アルビスはタンスに手を伸ばす。ふと手元を見ると、それは部屋着ではない。長袖のシャツに碧色の上着とズボン…。もしかするとこの格好のまま寝ていたのか?

(なぜだ?)

当然の疑問が頭を過ぎていく。だが、いくら考えても答えは出てこない。

(…今はとりあえず、確かめよう)

アルビスは部屋を出て、階段に向かう。寮の中には静けさが満ちている。アルビスが歩くときの衣擦れの音と靴音だけがそこにある数少ない音であった。

「誰か、いないか?」

一階に降りてあたりを見回し、さらに誰にとも知れず声を出してみるが、返事はない。台所、ロビー、寮母の部屋…人がいそうな場所をすべて巡ってみたが、やはり誰もいない。さらに探し回ろうと後ろを振り向いたとき、廊下の向こうに人がいたような気がした。それに引かれるようにアルビスの足どりが廊下へと向かう。しかし、そこにも誰もいなかった。

期待を失ったアルビスの心に不安が生まれてくる。何とかして人を見つけなければ…。寮の外に望みを託し、アルビスは玄関の扉を開ける。日の光が差し込み、その明るさにアルビスの視界が一瞬白く染まる。

視力を取り戻したアルビスの目に映ったのは、見慣れたいつもの路地ではなく、来たことの無い裏通りであった。

「ここは…バーン…なのか?」

改めて周りを見てみると、バーンのどこかであるのは間違いない。遠くに見える山は窓から見るいつもの山だし、並ぶ建物の造りはいつも見ているバーンの建物と変わらない。どこを見てもバーンの町に違いない…ただ一つ、通行人がいないことを除けば。

寮の中と同じく、そこにはアルビス以外に誰もいない。大通りに出ようと歩き出した時、アルビスは背中に何かを負っているような感覚を覚えた。背中に手を回して探ってみると、どうもマントを身に付けているらしい。さらに確かめてみると、さっきまでの服装に加えていろいろな小物を身に付けている。これではまるで、旅行に出かけるような服装である。

さっきは気がつくと普段着のまま寝ていた。そして今はいつのまにか旅行用の衣装を着ている。この謎めいた出来事に、アルビスは首を傾げて何が起きているのかと考え始める。そんなアルビスの視界の端で、影がちらついた。その方向に目を向けると、紺色の髪の女…赤い鎧を身につけ、腰から小さなマントと二本の剣を下げている…が歩いているのが見える。ある程度通りに沿って歩いていたその女は、アルビスに気付くと角を曲がって別の路地へと入っていった。

「あの女剣士…」

以前、夢の中でみた女だった。アルビスは小走りに駆け出す。女が入っていった場所に来て角を曲がったところで通りの向こうに目を凝らしてみた。

「…いない…」

女の姿はすでに無かった。その代わりに、建物が作る影の下で退屈そうに壁にもたれかかる男が一人いた。緑色の髪に黒で統一された服を着ている。うつむき加減の顔は退屈のあまり寝てしまったかのように目が閉じられている。

アルビスがその男のもとに近づこうとすると、男はこちらに気付いたのか、顔を上げてもたれかけていた身体を起こした。そして顔をアルビスのほうに向け、右手で「こちらへ来い」と言うかのように手招きした。アルビスがその方向に向かって歩き出すと、男はそのままアルビスとの距離を離すように歩き始め、先ほどの女と同じく、角を曲がって別の路地へと入っていった。

「今度こそ…」

再び曲がるべき場所に来てその先を見ると、そこには三人の男女がいた。そのうち二人はさっきもみた紺色の髪の女と緑の髪の男だった。そしてもう一人、それはしばらく前に知り合った吟遊詩人のアルダであった。

「先生!?」

思わず声を上げて駆け寄るアルビスに対し、アルダはアルビスが近づいていく様子をじっと見ている。

「先生、なぜここに? いや、その前にこの二人は一体? それとこの不思議な出来事は…?」

理解しがたいことが立て続けに起こるなかで出会った顔見知りに、アルビスは今までに沸いてきた疑問を次々とぶつけていった。

「私は貴方を連れ戻しにきました。まずは戻りましょう…話はそれからです」

アルダはまくし立てるアルビスを声で制し、左手でアルビスの手を取った。そして右手で宙に文字を書くように指を動かすと、低く強い調子で「ラド」と唱えた。周りの風景が蒸発したように消え去り、視界が白く染まる。そして一気に暗転し、アルビスは再び闇の中に落ちていった。