1. 奇妙な夢

どこからとも無く吹く風にランプの灯りが揺れる。灯りの下でアルビスは本を読んでいた。文章を追う視線だけがせわしなく動き、他はまるで時が流れるのを止めたかのように静かに存在していた。

ページをめくる手が、本に影を落とす。新しいページが開かれると手はその動きを止め、再び視線が動き出す。もう何時間も前から、その2つの動きだけが繰り返されている。

本のページが最後までめくられると、アルビスは本を閉じた。静かに体を起こして机の上に本を置き、大きく伸びをした。しばらくの沈黙。そのまま椅子に背を預け目を閉じる。深く息をつき、そのまま沈黙する。やがて沈黙はゆっくりと失われ、アルビスは立ち上がった。青い瞳を持つ眼が周囲を窺う。部屋の中には机の他にベッドと衣装箪笥があるだけだ。開け放たれた窓からは満天の星空が見える。

おもむろに歩き出し、窓際に立った。暦の上ではもう落日期に入っているが、外はまだ暑い。不意に流れこんだ風に髪がなびく。男の髪型にしては少々長すぎるが、そこそこ端整な顔立ちのおかげでむしろ似合っているぐらいだ。流れる髪の中から、すこしとがった耳が現れる。

アルビスはエルズニルと呼ばれる種族の出身だ。大自然を司る神・ソーンの眷属であるエルズニルは、体のどこかにヴェラニルとは異なる特徴を備えている。それはとがった耳であったり、若いときから生える濃い髭であったりする。前者は背が高く華奢な体つきをしてアルフと呼ばれ、後者はどの種族よりもたくましい体つきをしてドヴァークと呼ばれている。

アルビスはその外見からすればアルフと呼ばれる身だ。だが、大して背が高いわけでもなく、また華奢な体つきでもなかった。ついでに言うなら、耳のとがり具合も「普通」に近いものだった。体つきだけを見れば一般的なヴェラニルとほとんど変わらず、耳がとがっていなければ種族を偽ってもそのまま通ってしまうだろう。実際、耳が隠れた状態で人と会い、ヴェラニルと間違えられたこともあった。

アルビスは目を閉じ、風に乗って流れてくる音を聞き取るかのように耳を澄ませた。しばらくそのまま物思いにふけっていたが、やがてそれを止めて椅子に座った。これだけ集中して本を読んだのは…どれほど前のことだったか。小論文を書くために図書館にこもっていたときの事が思い出される。

(もう寝よう)

机の灯りを消しその足でベッドに身を投げると、彼の意識はそのまま闇の中に沈んでいった。

*  *  *

目の前には何も無い。ただ暗闇が広がるだけ。気が付くとアルビスはその中に立っていた。

(ここはどこだ? なぜ俺はここにいる?)

当たり前の疑問が頭に浮かぶ。しかし、この闇の中で答えは出てこない。全てのものを飲み込むように存在する暗闇を除いては、目の前に見えるものも無い。

(とりあえず手がかりを探そう。何かを確かめないと)

アルビスは暗闇の中を歩き始める。どっちを向いているのかさえわからないが、何もしないよりはいいだろう。

やがて遠くに光が見えてきた。安心感からか、吸い寄せられるようにその方向を目指して進む。初めはうっすら光るだけだったものが、近づくにつれ次第にはっきりと形を為す。手を伸ばせば届きそうなところまで近づいたとき、それは暗闇を抜ける出口のように見えた。なんの躊躇も無く光の中に踏み込んでいく。

暗闇の中から光の中へ…急激な変化に目眩を覚える。一瞬気が遠のいた後、目の前の白い光は消え、アルビスは森の中の道を歩いていた。

(今度はどこだ?)

その森の風景に見覚えは無い。だが、遠くの山には見覚えがある。バーンで下宿している部屋からはるか遠くに見える、フィヨル連峰の山並みだ。それでは、ここはシュヴァンツなのか?

(まだだ。とりあえずここがどこだか、確かめないと…)

さっきと同じ事を考え、歩を進める。既に日は落ちかけており、今の服装は普段着だ。早いところ抜け出さないと森の中で酷い一夜を過ごすことになる。そう考えただけで自然に足の動きが速くなる。しかし、道を行けども森を抜ける気配は無い。

(もしかして奥の方に向かっているのか?)

そんな不安を感じながら進む。進むべきか、引き返すべきか。そんなことを頭の中では考えていたが、足はその思考とは関係なく、道なりに進もうとする。やがて先に灯りのようなものが見えた。

(これで助かる)

そんな期待を込めて近づく。気が付くと、あたりはすっかり暗くなっていた。そしてアルビスは少しだけ開けた場所にいた。灯りだと思ったものは焚き火だった。その周囲に三人の人間が座っているのがわかる。一人は濃紺の髪を持ち剣士風のいでたちをした女のヴェラニル、もう一人は暗緑色の髪を持ち、マントを羽織った男のヴェラニル。そしてもう一人。こちらに背を向けているので良くわからないが、とがった耳を持っているということはエルズニルなのだろう。肩まで届いている金髪からすると…女か? しかし、自分も腰上まで髪を伸ばしているのを思い出し、アルビスは男かもしれないと思い直した。一つの考えに終始してはだめだ、と心の内で自分に言い聞かせる。

さらに焚き火に近づくと話し声が聞こえてきた。

「このままだと、明日にはウェストリ領内に入れそうだな」

男の声だ。するとここはシュヴァンツとウェストリの国境近くだろうか。しかし、ここがどこだろうと、自分がそこにいる理由などどうでもよくなっていた。まともに夜を過ごせる、アルビスの頭はそのことでいっぱいだった。野営地に近づき話し掛けようとしたとき、背を向けていたエルズニルが不意にアルビスのほうを振り向く。しかし、周りが暗い上に焚き火の炎をバックにしているので、男なのか女なのかわからない。

「どうしたの、……?」

女の声がその金髪の人物の名前を呼んだらしい。しかし、その女の声が聞こえた途端、アルビスの視界は歪み、急激に沸き起こった耳鳴りが女の声をかき消した。視界の歪みはますます大きくなり、焚き火の炎が異様に大きく膨れて、その周囲は逆に小さくしぼんで見える。

今度は激しい目眩と足元がおぼつかなくなる感覚がアルビスを襲う。最初は錯覚程度のものだったのが、視界の歪みと同じくだんだん酷いものになっていく。目の前は何とも無いのに、自分の身体は川の流れに翻弄される小船のように揺れ動く。

とうとうアルビスは空中に放り出された。いや、それは目眩が招いた幻覚なのか…。安定と足場を求めて手足が宙を泳ぐ。視界の歪みはいよいよ激しくなり、アルビスを囲んで渦を巻く。頭の中には耳鳴りの甲高い音が響き、身体は水の中を泳いでいるときのように宙ぶらりんの状態だ。

何の匂いも味もしない、口から漏れる声は耳鳴りに遮られて聞こえない。激しく歪む視界の中で、焚き火の炎だけがはっきりと形を留めている。耳鳴りに混じって、木の燃える音がやけにはっきり聞こえる。炎が発する熱気が肌に伝わり、木の燃える臭いも感じられる。焚き火の炎だけが、周りの歪みから切り取られたかのように、アルビスの目の前に「存在」していた。

安堵から一転して狂気の中に放り込まれたアルビスは、いつのまにかその炎を求め始めた。ただただ炎だけを目指し、ひたすら泳ぐように手をかき、走るように足を動かし、前に進もうとする。炎に近づいたとアルビスが思ったその時、焚き火の炎は向こうからアルビスに近づいてきた。炎が膨れ上がり、手を伸ばすように火の一部がアルビスに迫る。だが、アルビスは逃れようとしなかった。

炎への恐怖が無かったのではない。

死ぬしかないと、覚悟を決めたのでもない。

俺は、その炎が欲しい。それがあれば、何かがわかる。

火に手がかかったそのとき、焚き火はその内側から白い輝きに変わり、周囲を白く染めた。白い輝きは炎を飲み込み、周囲の歪みを飲み込み、さらにはアルビスまでも飲み込んだ。

全身を白い輝きに飲み込まれた直後、目の前は暗転し、意識は暗い闇の中をどこまでも落ちていった。