2. いつもの日々

「く…! 何だったんだ…今の夢は?」

悪夢は悪夢だが、同時に不思議でもある夢から目覚め、アルビスは悪態をついた。そして、そのまま重い頭を動かして周囲を見た。机の上には昨夜読んだ本が置いてある。壁には外出用の上着が引っ掛けてある。窓の外からは陽の光が差し込んでいる。見慣れたいつもの風景、いつもの部屋の中だ。

そんな当たり前のことに気を回している自分に気付き、アルビスは心の中で苦笑していた。

(所詮、夢じゃないか。たまたま気持ちが沈んでいただけだろう)

今日も一日がんばろう、そう思って腰を上げたアルビスは全身に汗をかいているのに気付いた。しかも、昨日の格好のままである。思い出してみれば、昨夜は着替えるのも面倒くさくてそのまま寝てしまった。このままでは不快なことこの上ない。おまけにあんな夢を見た余韻なのだろうか、なんだか胃のあたりがムカムカする。精神衛生上よろしくない、そんな事を考えながらアルビスは立ち上がり、たんすに押し込んである洗い置きの服を持って部屋を出た。

一旦玄関から外へ出て裏庭に回り、井戸のそばへ。つるべ桶を井戸の中に放り込み、水を汲む。アルビスは服を脱いで上半身裸になり、冷たい井戸水をそのまま頭からかぶった。冷たい刺激が全身に走り、いままでの眠気をすっかり流してしまった。初秋の日光が肌を照りつける。暑いとはいえ落日期に入った今、井戸水を頭からかぶるのは快感とは言い難い。しかし、あんな夢の後である。いつのまにかアルビスはふと夢の中で見たものを考えていた。

(あの三人は何者だったんだ?)

濃紺の髪の女に暗緑色の髪の男…そして、金髪のエルズニル…今はそれしかわからない。しかし、他人のはずなのにそのような気がしない。かといって懐かしくもない。誰なんだ…?

急に手許の桶が目に入った。俺は何を詮索しているんだ? あれだけで何かわかる道理なんかあるわけない。頭の中からイメージを消すように首を振った後、二度三度と水をかぶり、アルビスは洗い置きの服に着替えた。さらに桶に水を汲み、ズボンとシャツをゆすいだ後に絞り上げてひとまとめにする。慣れた手つきで服をまとめ、アルビスは井戸を後にした。

「あ、寮長…おはようございます」

廊下で出会った女将風の女にアルビスは挨拶した。寮長と呼ばれた女はアルビスの姿を認めると、いかにも女将らしいといった笑顔を浮かべた。

「朝から水浴びかい? 精が出ることだね」

「ええ、まあ…ひどく汗をかいたみたいで」

「へえぇ? 大丈夫かい? 具合が悪いとかなら、早めに言うんだよ?」

「そんなんじゃ無いです。ただ…」

「…?」

「あ、いや、何でもないです」

笑顔から怪訝な顔に変わった寮長をそのままにして、それ以上言葉を続けることなくアルビスは部屋に引き上げた。

濡れた服を窓際に放り投げ、いすに腰掛けて大きく息をつく。何だか落ち着かない。どうしても昨夜の夢がフラッシュバックして、焚き火を囲む三人のことが頭の中に留まっている。

「あぁー、もう! 何なんだよお前ら!」

思わず身を乗りだして大声を張り上げたが、その声は部屋を吹き抜ける風の前に虚しく流されていくだけだった。

「…あほくさ…」

そのままベッドに身を投げ、天井を見つめる。そのまま今日もどうしようか、などと考えたところへ…

「朝食の準備ができましたよー」

寮長が呼ぶ声が聞こえた。今度こそ、気にするのは止めだ。そう心に決めてアルビスは身を起こした。

初秋の陽射しがバーンの町を照らしている。その一角、新市街の住宅街から大通りに抜ける街路をアルビスは歩いていた。石造りの家が道の両脇に並び、時折吹く風によって砂埃が舞う。そんな中、職工や学生と思しき者たちが道を急ぐ。街路の脇では女たちが井戸端会議に興じ、子供たちは駆けずり回って遊んでいる。そういった道行く人に混じって、アルビスは学院へ向かって歩いていた。

ふと気が付くと、歩いているアルビスの足元にボールが転がっていた。革を縫い合わせ、中に空気を詰めて作られただけの、シンプルなものだ。ボールが転がってきたほうに目を向けると、子供が一人駆け寄ってくる。さらにその向こうには数人の子供がいる。どうやら球遊びに興じていたようだが…。

その状況を見て取ったアルビスは、再び足元に目を向けた。そして、足の先でボールを跳ね上げ、膝や踵を使ってボールを地面に落とさないように蹴り始めた。ボールを拾いに来た(少なくともアルビスはそう思った)子供は、しばらく呆気に取られてその様子を見ていたが、上手にボールをキープするアルビスの動きに目を奪われ、その挙動を食い入るように見つめている。さらには一緒に遊んでいた子供までもがやってきて、アルビスのワンマンショーを見ていた。

「よっ…ほっ…さっ…と!」

最後は額の上でボールを打ち上げ、そのまま手のひらの上に落とした。

「はい、お粗末様でした」

そう言いつつ、アルビスはボールを乗せた手を子供たちに差し出した。一瞬の沈黙の後、子供たちから驚きと歓喜の声が発せられる。

「お兄ちゃん、すごい!」

「どうしてそんなにできるようになったの!?」

「僕もできるようになれるかなぁ?」

子供たちに群がられ次々に言葉を浴びせられたアルビスは、笑顔を浮かべながら答えた。

「誰にもできることだよ。大事なのは、諦めないこと。んじゃ!」

子供たちをなだめ、手を振りながらアルビスはその場を去った。そのまま道なりに歩き、やがて大通りに出た。王城と市街の南側を結ぶ、大きな通りだ。馬車が五台ぐらい並んで通れそうな道の中央を、緑色の茂みで仕切られた別の道が走って通りを二分している。両側には石造りの建物が並び、所々に宿屋や酒場の看板が張り出している。中央の道もその両側の道も、通行人でごった返していた。そんな人の中を、時々馬車や馬に引かれた荷車などが流れに沿って通り過ぎていく。

大通りを通る人には、地元の市民ではなくこの町を通過点として他の土地へ行こうとする者たちもいる。彼らは大抵、旅装束を着ているのですぐにわかる。そんな通行人たちに混じってアルビスは通りを北に向かって歩いていく。この人の流れもいつもの風景だ。

すれ違う人は誰もが旅人か面識の無い市民ばかり。アルビスが彼らのことを気にしないように、誰もお互いのことに興味など持たない。先を急ぐマント姿の旅人、筋肉質の身体にシャツにズボンという、いかにも土方仕事に従事していると言う風情の男、色とりどりのお手玉とマントで行き交う人の気を引こうとする大道芸人…とりわけアルビスの目を引いたのはそれぐらいだ。だが、それも多くの旅人が行き交い、年中どこかで建物が建て替えられているバーンでは珍しくもない。

やがて大通りは土を固めた道から徐々に石畳の道に変わり、両側に並ぶ建物も酒場や宿屋に加えて武器屋や食料品店、雑貨店など、市民がよく利用する店が混じるようになっていく。しかし、通りを行き交う人々に変わりは無い。お互いのことには目もくれず、見えない力に御されたように流れを作っていた。

そんな石畳の道を進んでいくと、街の中心部にある「バーンの指」を囲う並木が見えてきた。「バーンの指」とは巨大な日時計で、時刻を表す影を落とす長い針があたかも人が指差しているように見えることからこの名がある。直径が14ラング(約20メートル)にも及ぶこの巨大な置物はバーンの街のシンボルともなっているが、単なる飾りではなく実際に時を刻む役割もきちんと果たしている。その周囲には人口の池と芝生が作られ、「バーンの指」周辺はちょっとした公園のようになっている。日時計の周りで休憩する人影が並木の間から見える。

木々の上から飛び出す尖った針を横目に、アルビスは広場の南東の一角に向かう。ユニフェル魔道学院…入り口となる門の脇にかかる鉄板には、飾りのついた文字でそう書いてある。門からは幅の広い道が中へ続き、その片側は並木になっている。道の反対側には芝生が広がり、初秋の日光が降り注いでいる。

アルビスは学院の敷地に入っていった。入り口を警備する守衛に会釈をして並木道を歩いていく。中を歩いているのは学生と思しき若者だけではない。学院の敷地は一般にも開放されており、誰でも踏み込むことができる。それを裏付けるかのように、並木道を歩く人の中には子供を連れた女に、余生を楽しむ老人といった、明らかに学外の者も混じっている。そのような通行人に混じって道なりに進んだ先には、噴水が備えられた池と通行人を見下ろすように並んで立つ二つの建物があった。

左の建物の入り口には普通学部と書かれた看板がかかり、右の建物の入り口には魔道学部と書かれた看板がかかっている。普通学部は希望者に高等教育を行う、いわゆる大学のような場所であり、魔道学部は魔術の研究を中心に考古学や歴史学などを研究するという場所だ。その魔道学部が入っている右手の建物の前でアルビスは空を仰いだ。日は既に高く、もうリオース(午前)の後半に差しかかっている。もうすぐ講義の時間だな、と思いながらアルビスは建物の中へ入っていった。

百人は入れそうな階段教室では、歴史の講義が行われていた。出席している学生の数は20人程度で、広い講義室はガランとした印象を受ける。その空間に、壇上に立つハールの声が響き渡る。今日の題目は新暦以前、つまりはスルトの裁き以前の歴史についてである。通称「旧時代」と呼ばれるこの時代は、現在の勢力とは多少違う構図ができていた。講義の内容は当時の地理に始まり内政、外交と政治的な話題が延々と続いている。

そんな講義を聞きながら、アルビスはだんだんと眠くなってきた。歴史の講義自体は嫌いじゃない。だが、政治的な話題は御免だ。ただでさえ、受身で講義を聞くというのは嫌いなのに。身体を動かすのが好きなアルビスにとって、じっとしているだけのこの講義は堪えがたいものであった。

そのうちにまぶたが重くなり、ハールの声もだんだん遠くなるような気がして、ついにアルビスは眠りに落ちていった。

*  *  *

目の前に広がるのは暗闇の空間。目を覚ましたアルビスがいたのは、その真っただ中だった。たとえ灯りの無い夜でも見える手許さえ、今は見えない。目にも耳にも伝わってくるものは何も無いが、ただ濃密な黒いものがそこに在るのだけはわかる。

(またか…ここは、どこだ?)

手探りとも呼べないままアルビスは闇の中を歩き始めた。やがて光が見えてきた。前と同じだ。

その光は近づくにつれて大きくなり、目の前に迫った時には暗闇を抜ける出口のように見えた。今度はどこへ連れていかれるのか? そんな疑問を持ちながらアルビスは光の入り口をくぐった。

しばらくの目眩の後、アルビスは椅子に座っている自分に気がついた。目の前には大きな矩形のテーブルが置かれ、クロスが敷いてある。白い絹でできた上等なもので、縁には金色の糸でレース模様の刺繍が施してある。かなり手の込んだ、複雑なデザインだ。仕立て屋に頼めば、軽く金貨十枚は要求されるだろう。そんな贅沢品のテーブルクロスの上にはグラスが置かれ、透明な液体で満たされている。多分、酒か水だろう。

回りに目を向ける、そこは日常の風景ではなかった。学院の大講義室並に広いその部屋の壁は白く、所々にタペストリーが飾られている。タペストリーに描かれているのは盾を背景に広げられた本、そしてその上で交差する剣と鵞ペン…学問を尊び、同時に武を重んじるシュヴァンツ王国の紋章だ。銀糸で刺繍されたサーベルと金糸で刺繍された羽根ペンが痛いぐらいに目に止まる。

さらに辺りを見回すと、部屋の隅にお仕着せの黒い服に白いエプロンを身につけたメイドが控えている。どうやらここは、アルビスのような平民は入ることすらかなわない、高貴な身分の人間の屋敷らしい。

手許に目を移したアルビスは、来ている服も普段のとは違うことに気付いた。黒い絹仕立てのズボンに青色に染め抜かれた上等のシャツ、さらに紫色で絹仕立てのノースリーブの上掛け、どれも持ち合わせていないはずの服だ。そして再び周囲を見回したアルビスの目に驚くべきものが映った。胸前に勲章をいくつもぶら下げ、一目で軍人とわかる服装の男に、王宮への出入りを許されている高位の貴族、そして…シュヴァンツ国王フィアゼク・フォン・フリードリヒ。シュヴァンツ王国を動かす中核とも呼べる人物たちがそこにいた。

アルビスは急に全身が緊張した。硬くなっている外側に対し、内側からはソワソワした感覚が湧き上がってくる。できることなら、今すぐにでもそこの扉から飛び出してこの場から逃げたい。しかし、たとえ自分がその場にふさわしくない者であったとしても、この場でそんな大胆な行動に出るわけにはいかない。立ち上がれば周りの者が驚いてやって来る。どうしてここにいるのかわからないが、とにかく理由をつけることはできない。だから、ここに座っているしかない。

もどかしい気分だけが募っていく。自分の斜め前では将校と思われる男が書類を読み上げながら説明をしている。緊張感がイライラに変わり、あちこちを見てしまう。そのうちにフィアゼク国王と目が合った。

「いかがなされました、賢者殿?」

国王の口から出てきたのは自分に対する敬語であった。賢者って、いつの間に俺はそんなに偉くなったんだ? 未だに事態が把握できない状況だが、とりあえず返事をしなければならない。

「いや、何でもありません。ただ、ちょっとこの雰囲気に落ち着けなくて」

「そうですか。何かお気に召さない事があるのかと思いましたが…」

アルビスはきまりが悪くなって正面を向いた。胸の鼓動が外に響きそうな気がしてきた。視線の先には暖炉があり、黄色い炎が踊っている。その炎を見つめているアルビスは急にわき腹をつつかれた。

「ちょっと…落ち着きがないわよ。ダインを見習いなさいよ」

そういって注意してきたのは、見覚えの無い…いや、一度だけ見た覚えのある女だった。紺色の髪は肩にかからないように短く切ってあり、革と金属の複合素材でできた紅い鎧の下に着ている服は、動きを妨げないように袖も裾も短く仕立ててある。座っている椅子のそばには剣が二本立てかけてあり、彼女が剣士であることを示している。顔は…いや、あまり見ているとひっぱたかれそうだ。

その女が指した先に居るのは、やはり一度だけ見たことのある男だった。顔は向こうを向いているのでわからないが、緑色の髪をして上も下も黒で統一した服を着ている。さらに黒塗りの鎧を着て黒いマントを身につけた状態で椅子に座っている。手首までを覆う長袖の上にはやはり黒い腕輪をはめており、手はきちんと組んでテーブルの上に置かれている。鎧や腕輪の所々に青や黄色の筋が入っているのが見て取れる。彼がダインであるらしい。

「…ああ、わかってるよ、フリオス」

周りに聞こえないほどの小声で返事をして再び正面を向く。

数瞬の後、フリオスという名に疑問を感じた。いままでの人生の中でフリオスと言う女に会った事は無い。誰だったか、と疑問が沸いた途端、急に空間が歪み始めた。以前経験したときと同じように、全ての音と声は耳鳴りにかき消され、正面に見える暖炉の火を除いて全てが歪み、渦を巻く。暖炉の火がゆっくりとアルビスに迫り、アルビスもまた炎を求めようとする。そして、目の前に迫った炎はまたしても白く輝く光となり、アルビスは気を失った。前と同じ…いや、ブラックアウトしていく意識の中で二つの言葉がいつまでもアルビスの頭の中で繰り返されていた。

ダイン…

フリオス…