3. 学院にて

(まただ…)

重い頭を上げてアルビスはまわりを見回した。講義はとっくに終わっており、寝起き直後でぼやけた視界には大講義室の風景と数人の学院生の姿が映っている。白壁にはめ込まれた窓からは初秋の陽光が差し込み、アルビスが座っている列とその周囲を照らしている。窓から差し込む光と眠気を誘う講義の声は、まさに寝てくださいと言わんばかりの状況であったのだ。眠気を覚まして立ち上がろうとするが、身体はまだ寝ているらしい。腰が重く感じられ、立とうとするその動きもきわめてゆっくりしたものに感じられた。

「おはよう、寝坊助さん」

やっと立ち上がったところで眠気覚ましに気勢を入れようと息を吸い込んだアルビスの耳に、軽い挑発を込めた声が届く。声の来たほうを振り向くと、エルナが立っていた。肩にかかるぐらいに長い茶色の髪と茶色の瞳を持ち、アルビスや他の学院生と同じく布製の質素な服を着ている。こうしていると見た目は平民の娘だが、実のところはシュヴァンツの貴族の娘である。両手を後ろに組んでアルビスの顔を覗き込むようにして立っている。警戒心はもちろん、よそよそしさも無く話し掛けてくるその姿は、彼女がアルビスと親しくしていることを暗に示していた。

「講義中に堂々と居眠りなんて、あなたらしいわね」

今度こそはっきり目を覚ましたアルビスに、エルナはさらに挑発とも皮肉とも取れそうな一言を放つ。

「いつものことだよ。眠い時には寝るに限る」

何をいまさら、と言わんばかりに返したアルビスに対して、エルナは口元だけで笑っただけだ。手を組んだまま、一段高いところに立ってアルビスの顔を見ている。さすがに貴族の令嬢であると言うべきか、その立ち方や振る舞いには、庶民には無い気品が漂っているようにアルビスには感じられた。エルナは背筋を伸ばしたが、アルビスとは段差が埋まってしまうほどの身長差があり、二人の目はほとんど同じ高さにある。

「あーあ、もうちょっとその性格が直れば素敵なのに」

わざとらしくそっぽを向いて、聞こえよがしに言う。

「何のことだ?」

「普段から本気を出してくれたら…ってこと。本当のアルビスはこんな…のんびり屋さんじゃないんだから…」

「それは難しい注文だな。いつもそんなことしてたら疲れちまう」

やれやれといった感じで首を振り、いつもの応酬のつもりで言葉を返したアルビスは、エルナの視線に気付き失言をしたと思った。アルビスを見るエルナの目はいつもとちょっとだけ違っていた。ほんの少し傾いだ顔に陽光が差し込み、潤んだ瞳が光を映してキラキラと輝いている。その眼が熱っぽくアルビスを見つめている。

予想外の展開に内心慌てるアルビス。その場をどう取り繕おうかと言葉を探すが、うまく見つからない。他人がこんな状況に陥っているのを見たことはあっても、自分が陥ることは無かった。気持ちを落ち着かせようとするほど思考がまとまらなくなる。エルナの顔を見ると、その眼差しに悩ましさを覚えて直視できない。しかし、だからといってフォローを入れずに立ち去るわけにもいくまい。進むも退くもならないまま、いつのまにかアルビスは目が宙を泳ぎ、口元は固く引き結んだ表情をしていた。もちろん、心の内では必死で巧いフォローの言葉を探しているのだが。

と、途端に弾けるような笑いが起こる。改めてエルナのほうを向くと、そこには腹をかかえて身をかがめ、息が詰まっているのではないかと思うほど表情を崩し、大口を開けて笑っているエルナがいた。ということは、よっぽどアルビスの反応がおかしかったのだろう。

「こんな簡単な手に引っかかるなんて!」

「大きなお世話だよ」

大声で反論はしてみたが、自分がからかわれていることを思い知らされたアルビスはばつが悪い気がした。ここにいるのが自分とエルナの二人だけならともかく、今は他にも学院生がいるのだ。もちろん、エルナの笑い声もアルビスの大声も周りの者にははっきり聞こえている。部屋にいる者全員の視線が二人に集まった。突然の笑い声と大声で静まり返った部屋の空気を伝って、密かに喋る声とエルナのあえぐ声がアルビスの耳に聞こえてくる。声にならない唸りをもらし、アルビスは次の言葉を探した。このままではエルナのペースで事が動いてしまう。とりあえずは、何を差し置いてもこの場を仕切り直したい。

「いつまでもここにいたってしょうがない。続きはまた後で、な」

わざとエルナを無視するように教室の出口に向かって歩き出すアルビスに対して、エルナは無言のまま並んで歩調を合わせてついてくる。

教室を出て廊下を歩いている間に、アルビスは隣に並んで歩いているエルナのことを考えていた。さっきのやり取りもそうだが、エルナはいつも取り繕ったりせずに接し、貴族出身だという身の上を微塵も感じさせない。そんなことから学院の学生の間では男女を問わず人気が高い。さすがに貴族の子女の中には反感を持つ者もいるようだが、アルビスや他の多くの平民出身の学生にとってはどうでもいいことだ。

(俺なんかにはもったいない子なんけどなあ。彼女にはウェインぐらいに真面目なヤツのほうがお似合いだ。魔道学部主席というのは伊達じゃない。少なくとも呑気に昼寝をしている俺よりはずっと…)

不意にエルナがアルビスの前に一歩踏み出して振り返った。アルビスが立ち止まるのにあわせてエルナも立ち止まる。そして教室でそうしたように手を後で組み、アルビスの顔を覗き込んだ。

「でもね、本気を出したアルビスが素敵なのは、本当よ」

「…『でもね』ってなんだよ?」

「…ばか」

お門違いの返事を返すアルビスに対して、エルナは聞こえるかどうかもわからないほど小声で罵り、小走りに去っていった。

「なんだい、ありゃあ…?」

いかにも疑問に思ったように首を傾げたまま、アルビスはその場に立ち尽くしていた。