5. 予兆

冬でも葉を落とさない針葉樹の林に、一本の道が通っている。アルビスは風が吹き抜けるその道を歩いていた。

目の前に続く道は乾いていて、時折吹く強い風に巻き上げられて砂埃を立たせる。道の両脇には背の低い草が生えているが、大半は砂利に覆われ、所々に人が腰掛けられそうな大きさの石がある。

道に沿って遠くに目を向ければ、緩やかに曲がる道の遥か向こうには険しい山が連なり、その尾根は山の向こうに沈もうとする夕陽をさえぎって、輪郭が赤く染まっている。空は暗く青い闇に覆われ、山の向こうから差す赤い光と混ざってなめらかなグラデーションを描いている。もうすぐこの辺り一体はニヨル(夜)を迎える。ニヨルになれば辺りは闇に覆われ、視界は無いも同然になる。

吹き抜ける風は鋭く、冷たい。いくら着ているのが旅装束であるとはいえ、マントを被っていても寒さが肌身に伝わってくる。それでも幸いなのは、風が向かいからではなく背後から吹いていることだ。ひときわ強く吹いた風にあおられて、マントの裾が激しくはためく。アルビスはマントを引き寄せた。この寒さのせいか、足取りが気持ち速くなっている。寒さに耐えるために首をすくめて奥歯をかみ締めていたせいか、首のまわりが凝ったように痛い。

こんな荒涼とした道をなぜ自分が歩いているのか、この道がどこに続いているのかなどとは、考えもしなかった。しかし、この先に自分が行くべき場所があり、自分はそこにある「何か」を求めているという確信があった。

そんな道の行く手に座っている者がいる。フードつきの暗い色のマントを身につけ顔をフードで隠したその人物は、近づくアルビスの姿を認めてゆっくりと立ち上がった。そのまま道の真ん中に進み出て、今度はアルビスのほうに向かってきた。この暗さとフードの陰に隠れているせいで顔はよく見えない。しかし、背丈はアルビスと同じぐらいあるのだけはわかった。

「待っていたよ…アルヴィート…」

どこかで聞いたような声。自分を呼んだらしいその言葉と共に、周りの景色は一変した。

空は暗い青から血を思わせるような暗い赤色に変わり、何か赤いものがガスのように流れ、渦巻いている。さらに所々に黒い雲が激しく渦巻きながら流れ、その切れ目からは黒い太陽が顔を覗かせている。黒い太陽は渦巻く赤いガスの流れを、底無しの闇の中に吸い込ませるように飲み込んでいく。

空から遠くの山々に目を移せば、いつも目にする灰色の岩肌や深緑の木々は見えず、代わりに毒々しいまでの紫色をした岩が露出している。しかも、それは岩というよりは何かの生物の肌のように生々しい。

さっきまで針葉樹の林だった道の両脇は立ち枯れた木に変わっており、中には幹が奇妙に捻じれているのもある。ある木は幹についた傷から血のように樹液を流し、またある木は道を行くものに救いを求めるように枝を広げていた。木々の表面には顔などあるはずもないが、それでも「痛い」とか「助けてくれ」と叫んでいるような気がする。

どの景色をとっても、やけに生きているような感覚を与えてくるくせに、その実体にはまるで生きている気配が感じられない。ふと空に目を向ければ、全ての精気をあの黒い太陽が吸い取っているように感じられる。これは、エルズニルであるが故の俺の感覚だろうか? それとも、ただの錯覚なのか?

異様なのは景色だけではない。どこに落ちているのやら、腐敗した木の実の甘ったるい臭いが鼻を衝き、吐き気が喉を伝って這い上がってくる。それを押し込もうと息を吸い込むと、腐った肉を口にしたときのような酸っぱい味がして、今度は腹の底がむかついてくる。

臭いだけではない。周囲の空気は湿気と熱気を帯びて漂っており、粘りつくように露出した肌にまとわりつく。肌から伝わる蒸し暑さに全身から汗が出る。耳に聞こえる音に生き物らしい音は全く聞こえず、ただ助けを求めるように唸る風の音と、自分や目の前の人物がまとうマントが翻る音だけが聞こえる。

まさにこの世界は闇に覆われ、死に向かっている。だが、これだけ傷ついた世界なのに目の前の景色の輪郭や色をはっきりと捉えることはできた。この死に覆われた世界で、光だけは生きているような…。

「お前は、誰だ…?」

腹を左手で押さえ、こみ上げてくるものに耐えながら、アルビスは目の前の人物に問い掛けた。

「誰だ…? 俺を忘れるとは心外だ」

男は唇の端を釣り上げ、肩を揺らして笑いを返した。相変わらず表情は見えないが、不快感に苦しむアルビスとは対照的に平然としている。

「俺は…お前だよ」

そう言って男はフードを脱いだ。白金色の髪が肩にかかり、やや尖った耳が髪の間から出ている。瞳は青く、その表情は鏡に映したようにアルビスとそっくりだ。だが、その目は睨むように相手を見つめ、口元は相手を嘲るように歪んでいる。水面に顔を映したときのようなアルビスの顔ではない。

「俺…だと?」

「そうだ、お前だよ」

「…ふざけるな! 何で俺が二人もいるんだ? 大体、俺の名前はアルヴィートじゃない!」

「俺の名前はアルビスだ、そう言いたいんだな?」

アルビスと全く同じ声で相手は切り返してくる。

「そう、お前はアルビスでありアルヴィートでもある。だが、俺がいるこの場では、お前はアルヴィートなのだよ」

「何だと? 言っていることが意味不明だぞ!」

自分と全く同じ顔の人間が、自分と全く同じ声で、理に合わないことを言う。目の前で繰り広げられる現実にアルビスは怒りを覚えた。実際がどうあれ、目の前の男が自分を騙ろうとしている。怒る理由はたったそれだけだが、それだけで十分だった。

「頭の悪いヤツだ…まあいい。お前が誰であれ、お前には消えてもらう。俺が真にアルビスであるために」

目の前の偽者が手を差し出す。手が白く光り、それは棒のように伸びて、剣の形を作る。できあがった光の剣を軽やかに振り回し、正面に構える。つづけてアルビスに歩み寄り、どんどん間合いを詰めてくる。

「消えろ」

相手の剣の間合いに入ったところで、偽者は感情を込めない声で言った。同時に剣を振り上げ、首筋をめがけて振り下ろした。だが、アルビスも黙って斬られたわけではなかった。剣の軌道を見切って刃をかわし、素早く間合いを離す。目の前の偽者がやっていたように手を差し出し、魔術を使うときのように意識を手に集中させる。数回瞬きする間に手には偽者が作り出したのと同じ光の剣が握られていた。

ベルトラムに教わった通りに身体を動かしつつ、相手の繰り出す追い討ちを外側に振り払い、反対側の手で相手の横面を狙って殴りつけた。だが、相手はアルビスの拳を受け止め、今度は剣の柄でアルビスのこめかみを打った。目の前の景色が急に揺れて、地面が傾いたような感覚に襲われた。そのまま地面に倒れたアルビスの視界に偽者の姿が映る。

「やはり、剣の腕も俺と同じだな」

鼻を鳴らして剣の切っ先をアルビスの喉元に突きつける。

「こんどこそ、本当に消えろ」

片手を剣の柄頭に添えて、剣を突き刺そうとした。目の前に光る剣が迫る。もはやここまでか…?

*  *  *

差し込む日の光に照らされて、アルビスは目を覚ました。身体を起こしてみたが、首のあたりが痛い。寝違えたのだろうか?気がつくと胸の辺りも何だか息苦しい。しかし、二度三度と深呼吸すると、それはすぐに収まった。それにしても、また変な夢を見た。今度は俺の生き写しか? しかも俺を殺そうとするなんて…。ふと、自分に成り代わろうとする「二重に歩く者」の話を思い出し、アルビスは身震いした。

アルビスはそのままゆっくりとベッドから離れ、のろのろとタンスのほうに近づいていった。タンスの引出しには、アルビスがいつも着ている服がしまってある。綿のシャツのそばには、毛織の上着とマントがたたんで入れてある。四年前にバーンに来る時に着ていたものだ。上着のほうは暗黒期になると着ることが多くなるが、それでもマントを持ち出すことは滅多にない。

シャツとズボンを一枚ずつ引っ張り出し、アルビスは引出しを閉じた。いつもの慣れた手順で着替えていく。上下とも着替えたところでアルビスは廊下に出て大きく伸びをした。手を組んで頭上にかかげ、全身に力を入れる。そのまましばらく耐えたところで、組んでいた手を外し急に力を抜く。全身に脱力感が走るが、気分は悪くない。

開いた窓から流れるそよ風が、廊下を吹きぬけていく。そのまま階下に降り、玄関へ向かう。今日と明日は久々の休日だ。何ものにも束縛されずに自由に過ごせる。何も目的を持たずに町中を散歩するのがアルビスは好きだ。

今日もそのように過ごそうと、玄関の扉を開けて外に出る。左右に広がる寮の庭には、昨日と同じく日差しが降り注いでいる。地面には草が青々と茂り、近くの木は枝にたくさんの葉を付けて生命力にあふれている様子を主張するかのようだ。

昨日の悪い夢とは対照的なその光景に、アルビスは心の内で苦笑していた。あんなことがあってたまるか、と声に出さずにつぶやく。そして敷地の門を出たところで、アルビスは聞きなれた声を聞いた。

「おはよう、アルビス!」

エルナが門のそばに立っていた。昨日は羊の毛を思わせる質素な色の服だったのが、今日は明るい青のドレスを着ている。片方の肩には幅広のリボンで作った飾りが留めてあり、腰帯も肩とは反対側に結び目を作って締めてある。他に飾りらしい飾りはつけていないが、皆が飾りの無い服を着ている中では、これでも十分に着飾っていると言えるだろう。そんな服を着たエルナが元気のある声でアルビスに呼びかけたのだった。そして、見られているアルビスが恥ずかしくなるほどの笑みを浮かべている。

「…なんでここにいる?」

「ん…ちょっと、ね。つきあってほしいな…って思ったから…」

そう言って、エルナははにかんだ表情を見せてから顔を背けた。そんなエルナの表情を見たアルビスは急に全身が熱くなった。昨夜ウェインが忠告し、アルビスが笑い飛ばした現実がいま当に目の前で起こっている。

そのような自分の浅はかさに加えて、エルナはおしゃれしているのに自分はいつもの服装のままというアンバランスさが、余計に自分のはずかしさを膨らませていく。

アルビスには長く感じられた時間も、エルナにはほんの数瞬でしかなかった。目の前で真っ赤になったまま動かないでいるアルビスの腕を掴まえた。

「『交わる翼』っていう宿屋に、吟遊詩人が来ているのよ」

「別に、珍しいことじゃないだろう? バーンにはいろいろな人が来るんだし。その手の話も何度か聞いたことあるぞ」

「今度の詩人はすごく若い人なんだって。それに、弾き語りもすごく上手いんですって!」

腕利きの詩人なら、確かに聞く価値はある。だが…

「で、なんで俺が?」

だからと言って、わざわざ他人であるはずの自分を誘ってまで見にいくような話ではあるまい。しかし…

「男が細かいこと気にしない!」

掴んだままのアルビスの手を引っ張ってエルナは大通りのほうへと歩いていった。