6. 吟遊詩人

宿屋「交わる翼」は、街の中心部から大通りを南に下ったところにある。一階は酒場やロビーになっていて二階以上が寝室という、ありきたりな造りの宿だ。エルナはその「交わる翼」の玄関の前までアルビスを引っ張ってきた。始めは唐突な展開に戸惑っていたアルビスもここに来る頃にはいつもの様子を取り戻していた。しかし、心の中ではまだ迷いがあった。

ウェインに言われて思い出してみれば、エルナの態度もどこか妙なところはあった気がする。今ほど親しくなかった頃は、他の女と同じように普通の他人として接してきたのが、ここ半年の間に態度が変わってきた。もっと的確に言うならちぐはぐになってきた。ある日はやたらと人懐こい様子を見せるかと思えば、他の日にはよそよそしくなる。昨日のように短い間に態度が急に変わったことも一度や二度ではない。面と向かって話すときも微妙に視線をそらして話すことがある。

しかし、だからといって俺に気があるということになるのだろうか?全く、女の心ってのは理解できない。もっとこう、真っ直ぐに向き合うことは出来ないものだろうか?

「何難しい顔しているの? 似合わないよ」

そういってエルナは人差し指で額の真ん中をグリグリと押してきた。

(こっちの気も知らないで、いい気なもんだ)

そうでも言って手を払いのけてやりたいところだが、その考えはすぐに別の考えに取って替わられた。

(まあしかし、今日ぐらいはそんなこと考えないでつきあうのも悪くないな)

扉を開けて中に入ると、外に漏れていた声がさらに大きくなった。二階まで吹き抜けになっているロビーは酒場も兼ねていて、まだリオースの早い時だというのに大勢の客で賑わっている。大半はマントやら毛織の上着やらを着た旅人風の格好だったが、宿泊客らしい簡素な服の者もいるし、アルビスたちのように普通の外出用の服装の者もいる。俺たちと同じように、吟遊詩人の噂を聞きつけた人たちだろうか?

奥に入っていくと一人の男が近づいてきた。下腹が少々太り気味で頭髪も薄くなりかけている、五十前の風貌の男だ。腰には使い込まれたエプロンを締めていて、まくり上げた上着の袖からは締まった肉のついた腕が出ている。

「ようこそ、『交わる翼』へ。お客様も、先生の歌を聞きにいらしたのですかな?」

商売人がよくする愛想笑いを浮かべながら、その男はアルビスに話し掛けてきた。言い方からすると、この宿の主のようだ。

「そのつもりで来た」

「さようですか。ですが、いつ始まるかはわかりませんな。何分、先生の気分次第でやるかどうかが決まるものですから。それでも、よろしいですかな?」

「…ということらしいが、どうする?」

主に話し掛けられた会話を受け流すように、アルビスはエルナの方へ顔を向けた。

「私は、いつまででも待つわ」

エルナはそう言ってさりげなくアルビスに身を寄せた。

「…なんでそこで間を詰める?」

小声でエルナに話し掛けるが、全く聞いていないようだ。仕方なしに元のほうに顔を戻すと、主はその顔をニヤつかせてアルビスたちを見ている。この男、勘違いしているな…。

「それでは、お席にご案内しましょう。しばしのご歓談をお楽しみください」

客に対する態度にしてはことさらに礼儀正しく、男は頭を下げて二人を席へ案内した。男に案内されている間も、エルナはアルビスに寄り添って歩いている。一旦は消し去った考えが再び頭に浮かぶ。

(気があるってのも、まんざら嘘じゃなさそうだ。だが…どうしたものか…。ウェインならうまいことやるんだろうな…)

「御用があれば、何でも言ってください。では」

不意に主の声がしてアルビスは現実に引き戻された。案内されたのは店の隅に近いところにあるテーブルだった。三人も座れば一杯になるぐらいに小さなものだ。主はそのまま立ち去り、本来の仕事に戻っていった。席に付いて辺りを見回すと、壁に寄りかかる男が目に入った。暇を持て余しているような顔つきで店の中を見回しているが、目だけは客の動きを油断無く見張っているように見える。空席があるのに立っているということは、用心棒の類だろう。

その男がこちらに顔を向けた。アルビスは思わず顔をそらしたが、その前に男と目が合ってしまった。男はしばらくアルビスを見ていたが、すぐに小さく鼻を鳴らす仕草をして他の方を向いた。しかし、その口元にはさっきの主と同じくにやけた笑いを浮かべている。こいつもかよ…。

主人を呼んで文句の一つでも言ってやりたいところだが、単なる勘違いのために喧嘩を売るわけにはいかないし、今日はそれをしに来たわけでもない。エルナのほうを見ると、こっちはこっちで周りを見回している。しかし、手をきちんと組んで置いているあたりは、貴族の娘らしい行儀の良さだ。

「まいったな…。あの主人といい、そこの用心棒といい、こっちの仲を決めてかかっているな」

アルビスにはどうしても「恋仲」という言葉を口にすることができなかった。たとえエルナがその気でも、また周りがそう思っていようと、アルビスにとってエルナは仲の良い友達よりも深い仲ではないのだから。

「私はそれでもいいんだけど…やっぱり早すぎたかしら」

「そりゃあ、まあ…ソル(正午)までまだかなりあるしな。スキール(午後)になるまで待ってもよかったんじゃないのか?」

「スキールまで待っていたら、あなたを捕まえられないわ。いつも散歩に出かけていていないし」

「休日だからって引きこもっている理由なんか無いからな…って、『いつも』ということは毎回来ていたのか?」

驚いた様子でエルナの顔を見る。エルナは無言のままゆっくりと頷いた。頬の辺りに赤味が差しているように見える。アルビスも恋愛談義というものに人並みの興味はある。この展開が何を意味するのか、わかっているつもりだ。

(本気…か?)

だが、そうと判ったところで何ができるわけでもない。二人の間にしばしの沈黙が流れる。どちらも話を切り出そうとしない。その沈黙を破ったのは給仕の女が運んできた茶だった。だが、二人とも注文した覚えは無い。

「親方が、これを二人にお出しするように、と」

給仕の女はそれだけ言って、小走りにテーブルを後にした。カウンターのほうを見ると、宿の主人がアルビスの視線に気付いて、謀ったような愛想笑いを返してきた。サービスのつもりらしい。もはやどんな言い訳をしても無駄だろう。

(やれやれ。しかたがない、ここは仲の良すぎる男女ってことで通すしかないか…)

そのままエルナと雑談をしてどれほどもわからぬ時間が過ぎた頃、若い男が二階に通じる階段を降りてきた。宿泊客だというのにマントを着けて堂々と歩いている。マントの陰に見え隠れしているその上着には、細長い図柄が二つ、合わせ目を挟んで金色の糸で刺繍がしてある。顔はエルナが若いと言った通り、多く見積もっても四十には届いていないであろう若々しさを備えている。そんな吟遊詩人は竪琴を脇に抱えたまま、店の一角に設けられた舞台に上った。そこには背の無い椅子がひとつ据えてある。おそらく、この時のために用意しておいたのだろう。

吟遊詩人が姿を現してから舞台に上がって何か喋るまでの間、客は一斉に彼に注目し誰も喋らなかった。何度か控えめに咳払いする声が聞こえたが、この静けさの中ではやけに大きく響いた。吟遊詩人は椅子の前に立つと、肩にかかるマントの片側を後ろに払い、客席に向かって恭しく一礼した。それと同時に客席の間から拍手が沸き起こる。それはすぐそばにいるエルナが話し掛ける声さえ聞こえぬほどに高まったが、吟遊詩人が椅子に腰掛けてさっきとは反対側のマントの裾を後ろに払うとしぼむように収まった。

そして、吟遊詩人の持つ竪琴がゆっくりと調べを奏で始め、続いて吟遊詩人の声が歌を歌い始めた。時々入る竪琴の音を背景に朗々と吟じていく。一つの連が終わるたびに竪琴の音が大きくなり、それ自体が詩を歌うかのように酒場じゅうに響く。そしてまた次の展開を迎えて詩人の吟唱が始まる。その繰り返しだ。

最初に語られたのは、伝説の時代の英雄物語(サーガ)だ。

彼がその身を潜める時
その姿は大樹の枝となり
あるいは草むらとなり
静かに獲物を狙う
一度、彼の矢に狙われ
難を逃れた者は無し

まさにヴィリアムは魔弾の使い手なり

この言葉で始まる詩はアルビスも聞いたことがある。「ヴィリアムの魔弾」というサーガだ。弓の名手ヴィリアムは、百ラング先の的の中心を正確に射抜く離れ技を平然とこなしたという。ヴィリアムの足跡を追うように歌う詩人の声は、竪琴の音色と同じく店の隅々まで響き渡っている。普段は酒の勢いに任せた騒ぎ声で満ちているであろうこの酒場も、今聞こえるのは彼の流れるような声だけである。

「ヴィリアムは同志を連れてラビンの山道を見下ろす高台に陣を取った。目標はこの峠を越えんとするラザルスの命。誉れ高き射手は矢をつがえ身を潜める。その姿はさも岩のようであった!」

吟唱はこのサーガの山場の場面に入った。ヴィリアムの生涯で最高の場面であり、また凋落の兆しともなる場面である。アルビスはいつのまにか腕を組み、わずかに肩を揺らしながら歌声を聞いていた。確かに、今まで聞いた中ではこの上なくすばらしい。これが旅から旅へと身を任せてきた者の実力なのか。そう思っている間にも、物語は先へと進んでいく。

「ヴィリアムの魔弾によりラザルスはラビン峠にその生涯の幕を下ろした。しかし、それは新たなる物語の始まりであった」

話はやがてヴィリアムの人生最大の悲劇へと移っていった。声に合わせて流れる竪琴の音が次第に悲しみの音色を帯びるようになったが、語りの口調はさっきまでの高い調子を維持したままだ。それはだんだんと悲壮さを増していく。

「とうとうヴィリアムは峠の山道に追い詰められた。なんとそこは、かつて彼がラザルスを討ち取った場所であった!」

詩人の口から、最後の抵抗を試みるヴィリアムの様子が朗々と語られる。魔弾の射手として名を馳せた英雄が生涯を閉じたところで詩は終わり、後には悲しい調べを奏でるだけの竪琴の音が響いていた。