7. 出会い

ヴィリアムのサーガが終わった。誰もが詩人の吟唱に耳を傾け、余計な音を立てるものは誰もいなかった。

だが、すぐにそれは歓喜の声と拍手に取って代わられた。舞台に銅貨を投げる者もあれば、興奮して足を踏み鳴らす者もいる。浮かれ騒ぐなかで、誰もが次の演目を待っている。

そんな喧騒に巻かれた中で、アルビスのいるテーブルだけは静かなままだった。なぜなら、二人ともずっと聞いていた時の姿勢を崩さずに黙ったままだからだ。しかし、それは長くつづくものではなかった。新しく旋律が流れ始め、「マクシマスと騎馬兵」が語られる。さらに「カネガン卿の鉄の意志」、「リサレクトラ」と、有名なサーガが次々と語られていく。一つのサーガが終わるごとに客席は沸き返り、収集が付かなくなるかもしれないほど騒ぐ。

やがて伝説の時代の英雄物語から暗黒の時代の詩へと演目が移ってきたころ、アルビスは急に眠気を覚えた。昨日は剣の稽古に行っていて、帰ってからは得体の知れない夢に悩まされ、そして今日はリオースの早いうちからエルナに連れ出され、どういうわけか昨日今日とゆっくり休んでいる暇が無い。それでも、伝説の時代のサーガを聞いているうちはまだよかったが…。そんな思考を最後に、アルビスの意識は夢の中に落ちていった。

*  *  *

「アルビス、アルビス!」

肩を揺り動かされてアルビスは目を覚ました。本を読んでいていつのまにか寝てしまったらしい。ひざ掛けの上には革で装丁した本が乗っていて、その中ほどが開いている。ページの記述は古語で書かれていて、読むだけでも一手間余計にかかる。左手のほうからは暖炉の火が踊る音が聞こえる。右手のほうに目を向けると、ナイトガウン姿のエルナがいる。

「また本を読んだまま寝ていたのね? そんなに疲れているのなら、早めに寝たほうがいいわ。今すぐベッドの用意をさせるから…」

「いや、まだいいよ。寒いからといって此処にいたのがいけなかっただけだ」

使用人を呼ぼうとしたエルナを制して本を閉じ、ひざ掛けをたたんで椅子から立ち上がる。

「それにしても、父さんも無理言うわね。いくらアルビスが賢者だからと言って…」

「仕方ないさ。賢者は世界中探したって五人もいないんだ。その一人が娘の婿だとなれば、当然期待もするさ」

「それは…、確かにアルビスが本気になれば本の一冊や二冊、どうってことないけど…それでも一冊丸投げするなんて、無茶もいいところよ! おかげでここ三日ほどはまともに寝ていないし…」

「ははは…もうそんなになるのか。じゃあ、今夜ぐらいはゆっくり休むか…」

そう言って目を閉じると、最近の記憶が頭に浮かぶ。あの時からもう二年が経つ。今の地位に落ち着いたのもエルナの父親のおかげ、と言うよりは今では妻であるエルナと自分を必要とするシュヴァンツ王家のおかげだが、その地位と引き換えに多くのことを期待されるようになった。新たに見つかったこの古書の解読を任されたこともその一つだ。

だが、意外に難物で本腰を入れないといけない、と判ってからは寝ている暇さえ惜しく感じられるようになった。これもあの時から持ち始めた感性だ。でも、こんな事になるとわかっていたなら、エルナをさらってでも下町に引っ込んでいたほうが気楽だったかもしれない、と昔の感性も捨てきれない。思い出すたびに暖炉で踊っている炎のように、二つの感性がせめぎ合う。しかし、今日は…もう寝よう…。

*  *  *

「アルビス、アルビス!」

肩を揺り動かされてアルビスは目を覚ました。吟遊詩人の吟唱を聞いている間に寝てしまったらしい。どこまで進んだのやら、今は一つの詩が終わったところらしい。舞台の詩人は給仕の差し出した杯に口をつけて喉を潤している。客席のほうも、長めの休憩の間に腹ふさぎをしておこうとする客と給仕の間でやり取りが交わされている。

「また寝ていたのね? ここまで来ると、大物としか思えないわ」

「大物…ね。確かに、夢の中では大物だったよ、俺は」

「どんな夢だったの?」

さっきまで見ていた夢の話をするアルビス。話を進めるうちにエルナの顔に赤味が差していく。

「あくまで夢だぞ、夢。そこまで虫の良い話があるもんか。特に、お前の家に婿入り…」

「それ以上言わないで!」

鋭い声を出して立ち上がったエルナがアルビスの口を手で塞ぐ。唐突な大声に酒場が静まる。客はもちろん、舞台の上の吟遊詩人までもが二人の居るテーブルを見ている。

「元気があってよろしいですね、お嬢さん」

詩人のその言葉に酒場のあちこちから笑いが漏れる。酒の上での陽気な笑いではなく、声を殺した密かな笑いだ。エルナはますます真っ赤になって腰を下ろした。

「そちらの男性はエルズニルでいらっしゃるご様子。本日最後の詩は『明日を予言する者』に致しましょう。スルトの裁きを鎮めたエルズニルの賢者・アルヴィートの物語にございます」

そう言って詩人は杯を給仕に返し、椅子に座りなおした。そして、竪琴を抱えて旋律を奏で始める。アルビスの眠気も寝起き直後のぼんやりした感覚も一気に吹き飛んだ。夢の中で何度か聞いた名前、事あるごとに自分を指したその呼び名が詩になっているとは!

「明日を予言する者」が終わって吟遊詩人が席を立つと、酒場の賑わいはいつもの喧騒へと戻っていった。窓から見える建物の影は、ソルを過ぎてスキールの後半に入っている位置にあった。気が付くと、二人の居るテーブルのそばにさっきの吟遊詩人が立っている。竪琴をどこにしまったのやら、マントで半身を隠したままエルナに一礼する。

「先ほどは失礼致しました。お許しいただきたい」

「あ…いいえ、構いません。あの…気にしていませんから!」

それは間違いなく嘘だろう、と心の中でつぶやいてみるアルビス。

「あつかましいようですが、こちらに座らせてもらってよろしいですか?」

今度はアルビスに向かって頭を下げる。ここで断ることができるわけがない。いいですよ、と受け入れると、詩人は慎んだ態度で席に付く。

「素晴らしい物語りでした。シュヴァンツ中の詩人を集めても、先生のお声に勝る人は見つからないでしょう」

「お褒めの言葉を頂き、有難うございます。シュヴァンツ王国は古来の伝統が残る土地と聞きます。詩吟の道を歩む私にはまたとない舞台でしょう。私はアルダと申します」

そう言って運ばれてきた茶に口をつける。マントの下の上着は金色の刺繍が映える青い色の生地で仕立てられ、合わせ目や袖口には銀糸で念入りな刺繍が施されている。マントには色とりどりの当て布がしてあり、ともすれば目立たなくなるであろう上着とは対照的だ。宮廷詩人が吟遊詩人になったらこんな感じだろうか、とも思うが、王宮に出入りしたことのないアルビスには、宮廷詩人がどんな服装をしているのかがわからない。そんな調子で見ているアルビスの視線に気付いたのか、アルダはカップを置いた。

「ときに、そちらの男性の方、アルヴィートによく似ておられますな」

「なんだって?」

「金髪碧眼のエルズニル、無二の魔道士にして並び無き軍師。詩は偉大な賢者をそのように伝えています。後半はともかく、あなたの顔立ちは詩にあるアルヴィートのそれによく似ておられます。偶然とは思えないほどに」

目を細めてアルダの顔を見つめるアルビス。一笑に付すつもりは毛頭無いが、すぐには受け入れがたい発言だと思った。視界の隅にエルナの顔を捉えたが、こちらは目を丸くして驚いたような表情を見せている。

「先生、うまい事を仰られますが、私は田舎から出てきた若者に過ぎません。バーンで学問を修め、魔道士になれたら村を守って自然に還っていきたい。そう願うエルズニルの一人です」

「ええ、もちろん似ているというだけであなたが偉大な賢者の生まれ変わりとは申せません。しかし、もって生まれた素質があるのなら、それは隠すことができないものです」

アルダはアルビスがアルヴィートでないことは認めたが、なおも反論する。

「お嬢さん、あなたから見てこの方はいかがですか? ご学友であるなら、噂もご存知でしょう」

頼むからごまかしてくれ、と目で懇願するアルビスに対して、エルナは少しだけ顎を引いて考え込む顔をし、そして答える。

「普段はこの通りの凡人ですけど、本気を出したらとても優秀な人です。偉大な賢者に及ぶかはともかく、仕官すればシュヴァンツにとって欠かせない人になれると思います」

頭が良いと言ってしまった、もうだめだと、諦めきった顔で首を垂れるアルビス。確かに学業成績は優秀なほうかもしれないが、それはエルズニルの才能であって俺の才能じゃない。それを誤解されたままでは…。

「それは素晴らしい。見たところ仲のよさも並々ならぬ様子、お二人ならお似合いの夫婦になれそうですね」

夫婦という言葉に一組の男女が同時に驚きの声を上げる。アルビスの全身に熱いものが駆け巡る。夢の中に見たエルナと、今のエルナとが重なって見えるのは気のせいだろうか? 当のエルナは耳まで真っ赤になって伏し目になっている。俺の顔もこんな感じなんだろうと考えてしまう。声を出すにも何を言ってよいかわからず、意味の無い言葉が歯切れ悪く続くだけだ。そんな二人を見ているアルダが、男にしては柔らかすぎる笑顔を作る。

「冗談ですよ、驚かせてしまってすいません。男女の仲は他人がとやかく言えるものではありませんから…」

その言葉に一気に体中の熱が引いていく感じがする。それにしても、笑えない冗談である。

「では、私はこれで失礼します。お二人の空間に邪魔して、申し訳ありませんでした」

アルダは座ったときと同じく慎ましやかに席を立ち、二階へ続く階段を上っていく。アルビスの視界から消える瞬間、アルダがこっちを向いて笑ったのが見えた。それと同時に、マントが風も吹かないのにはためいたような気がした。

アルダが去った後、二人はしばらく黙ったままだった。

「ねえ…アルビス?」

「…何?」

先に沈黙を破ったのはエルナのほうだった。だが、なんだかとても話しにくそうだ。

「周りから見たら私たち…」

「友達の一線を越えた仲に見えているんだろうな」

「…やっぱり」

「少なくとも、この宿屋に入ったときにはそうだった。正直なところ、エルナの気持ちは俺も嬉しい。夢にまでみるぐらいだ」

アルビスの心の中ではもうどうにでもなれ、という状態だった。自分がいくら否定しても、状況がいくらそう示していても、他人に冗談の種にされる程ならそれは現実だ。否定するほうが間違っている。

「だけど、俺は周りが思っているほどできた男じゃない。アルヴィートに似ているって言われたって、仮に本当の生まれ変わりだったとしても、俺は賢者にはなれない。それに…恋愛とか出世とかを話題にする前に、俺はエルズニルなんだ」

たとえ何が起こっても、この事実だけは動かない。

「エルズニルはヴェラニルの社会には出ようとしない。出てきても、目立たないように一生を送るだけ…俺がエルナと結ばれたとしても、俺はエルナにヴェラニルとして幸せな人生を送らせることができない…いや、できる自信が無いんだ」

これで、言うだけ言ってしまった。きっと嫌われるだろう。

「ばか……こんな時に…」

エルナの声が詰まり気味になっている。これで平手打ちの一つでも喰らえば完璧に振られるだろう。

「こんな時に言わなくてもいいのに。余計に諦めきれなくなっちゃうじゃない!」

「えっ?」

そう言って顔を上げたエルナの目には涙が浮かんでいるが、しかし笑っている。今度はアルビスがショックを受ける番だ。

「好きっていう気持ちはそんなものじゃ断ち切れないのよ。それにアルビス、私はあなたに幸せにしてもらおうなんて思っていない。あなたの側にいて真剣になっているアルビスを見ていたいだけなのよ」

ひょっとして俺はとんでもない勘違いをしていたのか? いや、そうとしか思えない。さらに、余計にエルナをその気にさせてしまったらしい。やっぱり早めにウェインに相談しておくべきだったな。

「なあ、エルナ…。俺はヴェラニルじゃないから、今みたいにすれ違うこともあると思うし、どうしても真剣になれないこともあると思う。それでも構わなければ、これからもよろしく頼むよ」

その夜は、やけに清々した気分だった。それは昨夜のやり取りで生じた疑問が一気に解消したからであり、ここ数日の謎に満ちた嫌な夢もすっかり忘れることができたからだ。深い眠りに落ち、次の日に日の出と共に起きたアルビスの顔には不安や疲れの色は全く見えなかった。